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インドネシアの歴史

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こちらではインドネシアの歴史を紹介しています。

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インドネシア年表

50万年前ジャワ原人現る
3万5千年前新人が進出
紀元前3000年第1回目の民族移動、第2回目の民族移動(稲作文化伝来、新石器時代)
紀元前300年ドンソン文化(青銅器文化)
紀元前200年第3回目の民族移動(鉄器文化)
1世紀頃華僑(中国商人)渡来、ヒンズー文化伝来
4〜5世紀頃クタイ、タルマ王国(ヒンズー教王国)が栄える
4〜14世紀頃スリウィジャヤ王国(仏教王国)が勃興
775年〜850年シャイレンドラ王国(仏教王国)が栄える
8〜11世紀頃マタラム王国(ヒンズー教王国)が栄える
1292〜1293年元のフビライ来襲
1294〜1487年マジャパイト王国時代
15世紀末イスラム教が広まる
1511年ポルトガルのマラッカ占領
1521年スペインのモルッカ諸島侵入
1598年オランダのジャワ侵入
1602年東インド会社(オランダ)設立
1641年オランダのマラッカ占領
1799年東インド会社解散
1811〜1816年ロンドン条約、ジャワの返還
1830年強制栽培制度施行
1848〜1850年大飢饉起こる
1873〜1917年アチェ戦争(反植民地闘争の1つ)勃発
1908年民族運動政党ブディ・ウトモ党の結成
1918年国民参議会(フォルクスラート)設置
1927年スカルノ氏がインドネシア国民党を設立、民族運動への大弾圧
1931年スカルノ氏、ハッタ氏等が逮捕、流刑に処される
1939年インドネシア政治同盟が組織される、民族運動合法的協調主義に転回
1941年太平洋戦争勃発
1942年日本軍がジャワを占領、スカルノ氏等がジャワに召還される
1945年インドネシア独立宣言(8月17日)
1947年オランダの再侵略(第1回軍事行動)、国連調停委員会設置
1948年オランダの再侵略(第2回軍事行動)
1949年アジア会議がインドネシアを支持、オランダが円卓会議を提唱(5月)、オランダ・インドネシア憲章調印、インドネシア連邦共和国建立(12月)
1950年スカルノ初代大統領、ハッタ副大統領を選任(1月)、インドネシア単一共和国成立(8月)、国連に加盟(9月)
1954年オランダ・インドネシア連合を廃止(8月)
1955年第1回総選挙(2月)、アジア・アフリカ会議をバンドンで開催(4月18日)
1958年日本・インドネシア平和条約および賠償協定調印
1960年国民戦線に関する大統領令公布(1月)、オランダと国交断絶(8月)
1961年マレーシア連邦構想が発表される(5月)、
西イリアン解放の為国民総動員令を発布(12月)
1962年西イリアンの返還に関する協定に調印(8月)
1963年スカルノ氏が終身大統領に就任(5月)、マレーシアと国交断絶(9月)、新興国スポーツ大会開催(11月)
1964年国連脱退宣言(12月)
1965年国軍内の左派勢力によるクーデター未遂事件が起こる(9・30事件)
1968年スハルト氏が第2代大統領に就任
1976年ASEAN(東南アジア諸国連合)発足、東ティモールがポルトガルから返還される
1997年アジア通貨危機により経済危機に陥る
1998年軍事独裁政権倒れ、ハビビ大統領就任(5月)
1999年民主化後初の総選挙(6月)、東ティモールが独立(10月)
2004年初の大統領直接選挙

※ 総支配人は1990年4月〜1994年3月まで居住。

ジャワ原人

19世紀末のヨーロッパでは、オランダ人軍医デュボアが中部ジャワのソロ市付近から持ち帰った7個の人骨化石をめぐって、大論争が繰り返されていました。
しかし、これらの化石がやがて人類共通の文化遺産になるとは、当時誰も想像できなかったでしょう。

約半世紀後の1936年、インドネシア人の1人の牧童によって、ソロ市近郊のサンギランで化石化した人間の頭骨が発見され、 その2年後、ついにピテカントロプス(猿人)の頭蓋骨であることが立証されたのです。

ピテカントロプス=エレクトス(Pithecanthropus Erectus 3万5千〜50万年前)は、別名ジャワ原人と呼ばれており、 現在の人類と直接関係はないとされながらも、人類進化の足跡を知る上で極めて重要なものです。

民族移動時代

一口にインドネシア人と言っても、人口の約半分を占めるジャワ族や、 次に多いスンダ族など、インドネシアには300もの種族が存在します。
では、彼らはいったい何処から来たのでしょうか?

まず、紀元前3000年以前にアジア大陸より1回目の民族移動があり、 スラウェシ島のクバオやトラジャ族を形成したと言われています。

続いて2回目の民族移動では、中国の雲南地方から原マレー人と呼ばれる人達が、 インドネシアに稲作を伝え、新石器時代をもたらしました。

稲作文化はやがて、紀元前300年頃ドンソン文化と呼ばれる青銅器文化を経て、 紀元前200年頃に鉄器文化を形成、米作農業を中心とし、精霊信仰をもつ原始共同体社会を出現させました。

更に紀元前200年頃、3回目の民族移動が蒙古系のマレー人によって行われました。

1世紀になると、華僑(中国商人)が香料や米、金などの交易の為渡来し、 同じ頃、スマトラ、ジャワ、カリマンタンに、インド商人によってヒンズー文化が伝えられました。
彼らはサンスクリット文学や政治制度を紹介し、これが後にジャワ文字やヒンズー文化として開花することになります。

ヒンズー教・仏教王国時代

4〜9世紀にかけては、ヒンズー教や仏教を信奉する王国が数多く出現しました。

短命に終わった小王国もあれば、約7〜800年にもわたり繁栄した大国もありました。
その大国は、スリウィジャヤ王国という仏教王国です。

スマトラ島全域とマレー半島の一部を支配し、現在のパレンパン市に首都がありました。
この支配下には、現在も貿易船の重要な航路となっているマラッカ海峡があり、 強力な海軍でもって安全を確保していた為、中国やインドとの貿易が盛んとなり繁栄を極めていたようです。

9〜11世紀、スリウィジャヤ王国とヒンズー教のマタラム王国(中部ジャワ)の2大王国時代を経て、 11〜13世紀は、マタラム王国の崩壊後、ジャワでアイルランガ、クディリ、シンガサリの3つの王国が誕生しましたが、 いずれも短命に終わっています。

ヒンズー教、仏教、その他の国に関しては インドネシアの宗教 を御覧下さい。

マジャパイト王国時代

1292年、シンガサリ王国は元(モンゴル)の襲来に備え、軍の大半をスマトラに派遣しました。
これを機会に、クディリの残党がシンガサリの宮殿を急襲し、クディリ王国が再建されます。

一方、シンガサリ王女と結婚した貴族ウィジャヤは、東部ジャワのマジャパイト村に軍司令部を置き、 上陸した元軍に合流し、再建されたばかりのクディリ王国を破りました。

その後、ウィジャヤは元軍を攻撃、これを追い返した後、1294年マジャパイト王国を設立、初代王に即位しました。
このマジャパイト王国は、ヒンズー時代最後にして最大の王国となります。

最も栄えたのが、14世紀中頃の名君ハヤム・ウルク王の時代で、この時の宰相がガジャマダでした。
ガジャマダは、庶民出身で、元は一部隊の隊長に過ぎなかった成り上がりの男です。

彼が宰相の時代に、王国の勢力は最大となり、今のイリアンジャヤ(現パプア)州を除いたインドネシアのほぼ全域と、 マレー半島南部、フィリピン南端までも支配下に治めていました。
その時の統治の方法は、占領した地域の王に自治権を与え、彼らが約束を破った時のみ軍隊を送って制圧するというものでした。

しかし、14世紀後半に入り、ハヤム・ウルクとガジャマダの死後、王国は衰退を始めます。
王位の争いや飢饉に、マジャパイトから抜け出そうとする国が増えたのです。

その頃(1400年頃)、マレー半島を中心とするイスラム教国家マラッカ王国が誕生し、 やがてイスラム教がジャワにも伝播、マジャパイトは1487年に滅びてしまいました。

イスラム教伝来

インドネシアにイスラム教を伝えたのは、13世紀のアラブやインドから来た商人達でした。

特に北スマトラの王の中にはイスラム教徒になった者が多く、1270年頃、この地方には多数のイスラム王国がありました。
ちょうどその頃、ジャワ島ではシンガサリ王国の最盛期で、クルタヌガラ王が初のインドネシア統一という大事業に着手した頃でした。

最初のイスラム王国は、北スマトラのサムドラ・パサイ(13世紀)ですが、 当時の大国であるジャワのマジャパイト王国によって滅ぼされてしまいます。

一方、マレー半島に1400年頃に建設されたマラッカ王国は、航海と貿易上、 極めて有利な地にあったため急速に発展していきました。
マラッカ王国は、マレー半島だけでなく、北スマトラと中部スマトラの一部をも支配していました。

このマラッカ王国からイスラム教が東部ジャワに広まって行くことになります。

東・中部ジャワの沿岸に住む大臣達は、マラッカ王国との貿易から莫大な利益を得たいたので、 彼らの多くはイスラム教に改信して、それぞれの小国をつくっていきます。

そして1487年、ジャワ島沿岸のこれら小王国連合によってマジャパイト王国が打ち破られ滅びてからは、 急速にイスラム教がジャワ島を覆っていきました。

植民地時代

インドネシアに初めて渡来したヨーロッパ人はポルトガル人で1511年の事でした。

その後、1596年にオランダ人がやってきて、19世紀初めの15年間、 一時的にフランスやイギリスの支配を受けた期間を除けば、太平洋戦争の頃までオランダに支配されることになります。

彼らの目的は香辛料でした。
やがて、ヨーロッパに多くの香辛料が運ばれた為、価格が暴落してしまい、彼らはあまり利益が得られなくなってしまいます。

そこで、1602年オランダの商人達が連合して、1つの大会社を造ることにしました。
これが東インド会社(V.O.C.)で、以後約200年間、インドネシアにおける貿易は、 全てこの東インド会社に所属することを義務付けられることになります。

東インド会社は、ジャワを初め、スマトラ、スラウェシを次々と侵略、 また数世紀に渡ってこの国で行われてきた自由貿易を真正面から否定した為、 インドネシアの商人の間に多くの反発を招きました。

東インド会社はあくまで商事会社で、インドネシアの経済面は支配していましたが、 政治は依然として各地の王、大臣、地方の首長等に任されていました。

1799年に東インド会社が解散した後は、オランダ新政府の方針で、政府自らが全インドネシアの統治をすることとなります。

東インド会社の資本は新政府の管理することとなり、ここに「オランダ領東インド政庁」が誕生、 名実ともにインドネシアはオランダの植民地となりました。

独立への道のり

東インド会社が統治を始めた17世紀から、ジャワ島を中心に数多くの闘争が行われてきました。

いずれもオランダによって鎮圧されていきますが、 特に1825年、ジョグジャの王子ディポネゴロによって起こされたディポネゴロ戦争は、 最大規模の反植民地闘争だったと言われていて、 オランダ側も多くの戦死者と国家予算分の資金を使い果たし、オランダ政庁を不安に陥れました。

オランダは国庫を補充する為、強制栽培制度を施行しました。
強制栽培制度は、農地の20%で指定の農作物を栽培し、政庁の決定する価格で売り渡す、といったものでしたが、 運用に当たっては、農地の50%以上となったりするなどしたと言います。

結果的には、オランダにとって反植民地闘争の資金補充だけでなく、本国にも潤いをもたらしました。

20世紀に入ると、近代思想を背景にした革命や民族の独立といった動きが、アジア全体に広まりつつありました。

一方、オランダも植民地近代化政策を実施せざるを得なくなり、エリート官僚を育成する為の教育も開始されました。
オランダの意図は、従順な官僚貴族の育成と民間企業の為に賃金の安い職員を確保することにありましたが、 結果として教育はインドネシア人生徒の目を開き、民族運動の種を芽生えさせました。

空港の名にもなっているスカルノハッタも、この頃に頭角を現し始めます。

1941年、太平洋戦争が勃発し、日本軍が1942年3月にジャワ島に上陸、 第2次世界大戦でオランダ本国がドイツに占領されていた為、孤立していたオランダ政庁はあっさり無条件降伏し、 300年に及ぶオランダの支配は一旦の終了を見ました。

そんな日本軍を、当初インドネシアの人々は熱狂的に迎えました。
捕らえられていたスカルノら独立運動の指導者が召還され、日本軍と共にオランダの色を消していきました。

しかし、早急な独立が目的のスカルノらと、戦争継続の為の資源確保が目的の日本軍との距離は次第に離れていき、 日本軍の厳しい統制が、失望から反日運動に変わっていきました。

次第に戦局が日本軍に不利になるにつれ、スカルノらは着々とインドネシア独立の準備を進めていきます。
そして、日本が降伏し太平洋戦争が終結した2日後の1945年8月17日、スカルノは自宅の庭で独立宣言文を読み上げ、 国旗メラ・プティの掲揚と国家インドネシア・ラヤが斉唱されました。

後日、スカルノが大統領に、ハッタが副大統領に指名され、新政府組織の構築を進めていきます。
その後、オランダの再侵略を受けましたが、国際世論に助けられ、完全な独立を果たしました。

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